2015年09月01日

天つ罪、国つ罪(あまつつみ、くにつつみ)  あなたを幸せにする大祓詞より

 「安國と平けく知ろし食さむ國中(やすくにとたいらけくしろしめさむくぬち)」とは、祖神(おやがみ)の御心、天照大御神の御心と一つになるから安国が出現するのであります。このことは畏れ多くも皇御孫の命(天皇陛下)だけに求めるものではなく、私たち臣下も私たち自身の心の中にご鎮座している天照大御神、天つ神、天之御中主神と一つになって生きることが重要なのであります。君臣が一体となって天照大御神の大御心を実現することがわが国の統治の根本にあり、それが安国という理想現実に直結するのであります。
 しかしながら、その理想現実を担う元来神聖な存在であるはずの国民が、本来の天つ神の御心から離れ、自分自身の心が自我の異心(ことごころ)に覆われて、過ちを犯してしまうのです。
 その過ちは無意識的にする間違いもあり、悪いと知りつつする罪もあり、さまざまの種類があります。そして、それは天つ罪と国つ罪に大別することができます。平安時代に編纂されました『延喜式』に記載されている「大祓詞(おおはらえのことば)」には、天つ罪、国つ罪の詳細な内容が列挙されていますが、明治以降はそれが省略され、天つ罪、国つ罪という総括の名称だけが口唱され現在に至っております。
 天つ罪とは、須佐之男命(スサノオノミコト)が誓約(うけい)によって、その御心の清らかさが証明された瞬間、謙虚さを失い、その御心は再び傲慢の穢れた異心となり乱暴の限りを働きますが、その高天の原で犯した農耕を妨害する罪にあたります。次の八種類の罪です。

畦放(あなはち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剝(いきはぎ)、逆剝(さかはぎ)、屎戸(くそへ)。


「畦放(あなはち)」は、田の畦(あぜ)をとりこわすことです。これでは田圃(たんぼ)に水が入らなくなるので、稲をつくることはできなくなります。
「溝埋(みぞうめ)」は、畦と畦との間の溝を埋めることですから、これも田圃に水が入らなくなるので稲はできないのです。
「樋放(ひはなち)」。樋(とい)とは、雨水を集めて流す管で、この場合は、稲作のために山の谷などから田に水を引いてくるものなのです。それを取り放つのですから、水の調節ができなくなり、これも耕作が不可能になります。
「頻蒔(しきまき)」は、稲種を蒔いた他人の田圃の上に、さらにまた重ねて稲種を蒔くことです。これは初めに蒔いた稲と後に蒔いた稲の両方の生長を妨害するものです。
「串刺(くしざし)」は他人の田圃の中に竹の串を刺し立て、耕作人に怪我をさせて妨害することです。また、他人の田圃の境界に、境界を示す竹の串を立てて、他人の田圃を横領することだとも言われています。
「生剝(いきはぎ)」と「逆剝(さかはぎ)」。『日本書紀』によれば、須佐之男命は清らかな機屋(はたや)の屋根に穴をあけて、まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って、穴から落としいれたので、機織女はこれを見て驚いて、梭(ひ)で陰部を突いて亡くなったとありますように、「生剝」とは動物の皮を生きながら剥ぐことです。普通皮を剥ぐときは、お腹を縦に割くそうですが、お尻のほうから剥ぐということは残酷な行為なのです。
「屎戸(くそへ)」とは、天照大御神が新嘗祭に新穀を召しあがる御殿に、須佐之男命が屎をまきちらしたことです。これは神聖なところを汚す罪です。

 以上が天つ罪です。すべて稲に関することで、耕作妨害、稲田横領、神聖なところを汚すことなどの罪です。稲は、天照大御神より賜ったものであり、私たちが生きて行くための「いのちのね」であります。その「いのちのね」である稲がとれなくなることは、祖神から賜った「いのち」を絶つことですから、天つ罪にあたるのであります。



 次に国つ罪とは、以下の十四の種類の罪事です。

生膚断(いきのはだたち)、死膚断(しのはだたち)、白人(しらひと)、胡久美(こくみ)、己が母犯せる罪(おのがははをかせるつみ)、己が子犯せる罪(おのがこをかせるつみ)、母と子と犯せる罪(ははとことをかせるつみ)、子と母と犯せる罪(ことははとをかせるつみ)、畜犯せる罪(けものをかせるつみ)、昆虫の災(ほうむしのわざはひ)、高津神の災(たかつかみのわざはひ)、高津鳥の災(たかつとりのわざはひ)、畜仆し(けものたおし)、蠱物為る罪(まじものせる罪)。

「生膚断(いきのはだたち)」とは、生きている人を斬ることです。また「死膚断(しのはだたち)」とは、死んだ人を斬ることです。わが国では、死者に鞭打つことは罪事なのです。
「白人(しらひと)」は、血族関係に有るもの同士の結婚によって、白子(肌の色が白くなる病気)が生まれること。
「胡久美(こくみ)」は、背中に大きな「こぶ」等ができることです。これらは、病気そのものを罪とするのではなく、それによって生じる汚れが、災いをもたらさないようにと祓うのです。
「己が母犯せる罪(おのがははをかせるつみ)」、「己が子犯せる罪(おのがこをかせるつみ)」、「母と子と犯せる罪(ははとことをかせるつみ)」、「子と母と犯せる罪(ことははとをかせるつみ)」等と、くどいように同じようなことを述べていますが、これらは全て倫理にそむく行為であり、人間として絶対にして犯してはならない罪だからであります。姦淫の罪を祓えの中でも最も重大と見ているのです。
「畜犯せる罪(けものをかせるつみ)」は、これも倫理に反するもので、人間としてあるまじき行為です。なお、ここでの「けもの」とは獣の意味ではなく、家庭で飼っている犬、鳥、牛、馬などをさします。
「昆虫の災(ほうむしのわざはひ)」は、蛇や百足など地上をはう動物によってもたらされる災禍です。
「高津神の災(たかつかみのわざはひ)」は、雷など高い空からもたらされる災いです。
「高津鳥の災(たかつとりのわざはひ)」は、鷲とか鷹などの鳥に人や家畜がさらわれるような被害です。
「畜仆し(けものたおし)」は家で飼っている犬、馬、牛などを呪い殺すことです。
「蠱物為る罪(まじものせるつみ)」は、お呪(まじな)いによって正しいものを混乱させる罪です。

 以上が国つ罪で、近親相姦や獣姦や呪術などですが、その中心となるのは、私たちの心が神様から離れて堕落し、人倫の乱れが元となって起こるものです。これら家族生活を破滅するものだからです。


 このように神道においては共同体の存続を危うくする行為等を罪に挙げておりますが、キリスト教やイスラム教、仏教などのように、個人が守るべき戒律として伝承された罪行為についての詳細な規定はほとんどありません。戒律が生まれてくる背景には、人間は元来、罪人であり、そのような罪を犯す救いがたい存在であるという人間観が根底にあります。

 これに対して神道では、祖神が何れの神であれ、自らを神の生みの子と信じてきた事実が、その人間観の中核となっているのであります。私たち日本人は、天つ神の御霊を受けて生まれたものであって、本来清らかな存在であると見ているのです。その清らかな本体が、我欲我見の異心に覆われて本来の姿を見失っているがために、その異心を祓うのです。これが本来の日本人の信仰です。


引用書籍 あなたを幸せにする大祓詞 著:小野善一郎 青林堂
     ※一部抜粋して掲載させていただきました。詳しくは書籍でお読みください。



posted by ひよこ at 00:12| 神道 | 更新情報をチェックする