2015年11月01日

迷信を絶滅させたら、文明社会になると思ったら、人間が機械仕掛けになった。 書籍「清らかな厭世―言葉を失くした日本人へより/著:阿久悠」

「迷信を絶滅させたら、文明社会になると思ったら、人間が機械仕掛けになった。」

迷信という言葉はもう使わない。ぼくらの子供の頃は迷信が諸悪の根源のようにいわれ、迷信が存在するから非文明国なのだと決め付けられた。
 迷信にもいろいろあって、社会秩序を守るため枷(かせ)の役目を果たすものもあれば、子供の躾に利用したものもある。ぼくらが知っているのは後者の方で、おおむね「たたり」と「バチ」というかたちで愚考を改め、不行儀を慎むように教育したのである。この教育、一種の脅しであるが、何だか否定し難い思いもあって、結局守った。
「そんなことをしてると、たたりに遭うよ」とか、「それを破るとバチが当たるよ」とか、そんなふうに使われる。たたりだバチだといっても大仰なことではなく、猫を苛めると化けて出るよとか、ミミズに小便をかけるとオチンチンが腫れ上がるよ、といった種類のことである。
 猫はどこか霊的なところのある動物だから、もしかしたら、化けて仇(あだ)を返しに来るかもしれないと思ったが、ミミズに小便をかけてオチンチンが腫れ上がるというのは、如何にも非科学的で、そんなバカナと思っていた。もっとも、ミミズには霊がないと考えているから、科学を持ち出してきて、検証不能で片づけていたのである。
 何しろ、ぼく自身の幼児体験といっても、六十年も過ぎているので、猫やミミズの他にどんなたたりやバチがあったか思い出せない。思い出せないがぼくらの周辺は、迷信で埋めつくされていて、たたりとバチに照らし合わせながら、日々緊張して生きていたのである。
 その頃、両親や町の大人たちは、迷信をバイブルのように扱って、子供たちの道を正そうとしていたが、先生をはじめインテリたちは、迷信からの脱却こそが、近代国家に生まれ変わる近道ぐらいのことをいい、「科学的」を新バイブルにしようと懸命であった。
 たかが六十年前のことである。ITどころか、便所の隅々にも怪談があり、科学とは程遠かった。
 さて、この「迷信」と「科学」の戦いは、科学的が圧倒し、この文章の書き出しのように迷信は言葉すらなくなった。従って、たたりもバチも消滅した。
 しかし、である。科学万能の二十一世紀、科学による合理性で人間は幸福になり、理性的な文明人になったか。決してそうはいえない。
 迷信が消えた途端に、人々は死体が恐ろしくなくなった。だから、死体を平気で傷つけ、損壊する。かつては、人を殺すことはあっても、たたりが恐くて死体を傷つけたりはしなかった。科学的ということは、死体は決して起き上がって反撃しないという証明なら、いっそこの世は、迷信だらけの方がいい。




引用書籍 清らかな厭世―言葉を失くした日本人へ 著:阿久 悠 新潮社 発行2007年10月20日より
     ※書籍のお話より、一話抜粋して掲載させていただきました。詳しくは書籍でお読みください。
     ※書籍中の表記から、一部ひらかなから漢字表記に変更部分と、小見出しには句読点を追加しています。

阿久悠オフィシャル・ウェブサイト あんでぱんだん
阿久悠(Wikipedia)
posted by ひよこ at 22:40| 阿久悠 | 更新情報をチェックする