2014年04月09日

江戸っ子に親しまれて 水天宮 (東京・江戸)

 安産の神様として、これほど有名な水天宮さまですが、じつは、もと筑後(現在の福岡県)久留藩主有馬家の、江戸屋敷の中にあった社だったのです。 現在の蠣殻町に移ったのは明治五年のことで、それまでは、芝赤羽の上屋敷にまつられてありました。

 この水天宮さまは、もとは筑後川のほとりにありました。 元来は名のように、水を司る神さまでした。 水天竜王ともいいます。 ですから土木、河川工事の進んでいない当時は、河川の氾濫を防ぐために、諸国の大名は頭をひねったものです。 久留米は筑後平野の一端にあり、豊かな米どころですが、九州第一の大河、筑後川が流れています。 静かに流れているときは、豊かな米・麦のみのりを助けますが、大雨が降り続くと、まるで狂った竜のように暴れて、人家を呑み、田畑を流します。

 藩主有馬候は、参勤交代で江戸へ来ているあいだも、郷里の天候が心配です。 それで久留米の水天宮を江戸の藩邸に分霊してまつり、筑後川の氾濫がなく五穀が実るように、祈願することにしたのです。

 そのころ、江戸は世界一の大都市であったといわれます。 また日本の国内では、もっとも武士の多い町でした。 それというのも、諸国の大名が、多くの家来を連れて江戸へやってくるからです。
 物見高い江戸っ子たちは、この諸国から集まってくる大名や、大名屋敷、そこに起こった事件などを見たり聞いたりして、おもしろがったものですが、そのなかでも、有馬の殿さまはたいへん人気がありました。

  そのころ、大名は収入を増やすため、屋敷に神社・寺院を建て、江戸の市民に開放しました。 おさい銭を受け、ろうそく・お供物・御符(御符)などを売るためです。 そして、そのなかでいちばんにぎわったのが、虎の門の京極家の屋敷にまつられた金刀比羅さま(本宮は讃岐=香川県)と有馬の水天宮であったのです。 有馬の水天宮が、江戸市民に親しまれたのには、いろいろ理由があります。

 江戸の名物を「火事に、けんかに、犬のくそ」といいます。 このうち、有馬家は、「火事」と「犬」に大いに関係がありました。
 火事の多い江戸では、今日でいう消防団もありましたが、大名たちも、一つには、自分の屋敷を守るため、二つには、江戸市民にサービスし、藩のかっこいいところを見せようと、はでな消防団を組織していました。 これを「大名火消し」といいます。

 火事の被害を最小限にとどめるためには、一ときも早く火事を発見することです。 そこで有馬の殿さまは、屋敷の庭に、高さ約十メートル、江戸でいちばん高い「火の見やぐら」をつくりました。 今日、東京名所の東京タワーの近くでもあります。 地方から江戸へやってくる武士・商人・観光客は、まるで東京タワーを見物にくるように、この有馬邸の火の見やぐらを見にきたものです。

 湯も水も火の見も有馬名が高し
 火の見より今は名高き尼御前

「湯も水も」の水は、もちろん「水天宮」の水ですが、「湯」は、有名な有馬温泉(兵庫県)から引いてきて、有馬の殿さまに重ねたものです。

 また、あとの句の「尼御前(あまごぜ)」とは、水天宮のことです。 なぜ水天宮を「尼御前」と読んだのかは、後でまた説明しますが、水天宮を安産の神さまとする信仰がだんだん強くなって、いまでは「火の見やぐら」よりもこちらが有名である、という意味です。

 もともと水天宮は、久留米の本宮のころからも安産の神といわれていたのですが、六代目の殿さま(則維 のりふさ)が、犬公方で有名な五大将軍綱吉からもらった愛犬を、大名行列に連れてあるいて評判となり、有馬公といえば犬、そして当時、妊婦はみな犬のように安産ができれば・・・ということできそって有馬屋敷の水天宮におまいりしたというわけです。

 大名行列が江戸市内にはいってくるときには、江戸市民たちは、ショーでも見るようなつもりで、道も狭いほどでした。 それで大名も、それぞれ趣向をこらし、ひげやっこに槍おどりをさせたり、きれいに着飾った美しい少年武士を、殿さまのわきにつけたりしましたが、有馬公の行列では、この「曳き犬」が名物でした。

 水天宮のおかげで有馬公が有名になったのか、有馬公のおかげで水天宮の人気が出たのか、どちらともいえませんが、そのころの江戸の庶民にもっとも人気があったことは事実です。 それは、日常会話に、「そうでありま(有馬)の水天宮」とか、また勝ち将棋のとき胸を張って、「どうでありま(有馬)の水天宮」などとしゃれて用いられたことからも、よくわかるというものです。

 この江戸時代の庶民の信仰が、そのまま明治になっても引き継がれ、今日も衰えることなく、いよいよ栄え、年間百万人もの参詣者でにぎわっています。


※ 参考図書を元に、引用、文章を書いています。
  東京水天宮ものがたり1985年11月3日第一発行(講談社)の、(二)より抜粋掲載させて頂きました。
(一)そうでありまの水天宮
(二)江戸っ子に親しまれて
(三)安徳天皇と壇ノ浦の悲劇
(四)尼御前と久留米の水天宮


東京 水天宮
全国総本宮 水天宮(久留米)
水天宮 - Wikipedia




 
posted by ひよこ at 15:33| 民話 東京 | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

聖徳太子 十七条憲法の要旨 ( 冊子 日本がもっと好きになるより )


十七条憲法の要旨

一、  和を尊び、人にさからいそむくことがないようにせよ。
二、  仏教をおおいに尊重せよ。
三、  天皇のお言葉には、必ずつつしんで従いなさい。
四、  役人は人の守るべき道をすべての根本とせよ。
五、  私利私欲をすて、公平な裁判をせよ。
六、  悪をこらしめ、善をすすめよ。
七、  人は各自の任務を果たしなさい。
八、  役人は朝早く仕事に出て、遅く帰りなさい。
九、  すべてのことにウソいつわりのない真心を根本とせよ。
十、  考え方のちがいで人を怒ってはいけない。
十一、 功績があれば賞を、罪をおかしたら罰を、正しくあたえよ。
十二、 地方官は人民から税をむさぼり取ってはいけない。
十三、 役人は各自の職務の内容をよく心得なさい。
十四、 役人は他人をうらやみねたんではならない。
十五、 私心をすてて公の立場に立つのが、君主に仕える者のつとめだ。
十六、 人民を使って物事をさせるのは、いそがしくないときを選べ。
十七、 大切なことはみんなとよく議論して決めなさい。


・聖徳太子 ( 574~622 )  厩戸皇子(うまやどのおうじ)とよばれた。

聖徳太子

聖徳太子とはどんな人?
 「和をもって貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」
 聖徳太子(574~622)というと、この言葉を思い浮かべる人も多いでしょう。 日本人の国民性として、よく「和の精神」ということがいわれますが、その由来は太子の残したこの言葉にあります。
 では、聖徳太子とは、いったいどんな人だったのでしょう。
 日本最初の女性天皇といえば推古天皇(554~628)です。 太子はその甥です。 幼いころからすぐれた才能を示していた太子は、推古天皇の摂政(天皇に代わって政治を行う職)に任命され、大活躍しました。
 太子は、冠位十二階を定め、家柄や身分より個人の能力を重視した人材登用を行いました。 また、十七条の憲法を作り、役人の心構えを説きました。 「和をもって貴しとなす」は、その第一条の言葉なのです。

外交に示された気概とセンス
 また、太子は新しい国づくりのために、中国の隋に遣隋使を派遣し、進んだ制度や文化を導入しました。 その際、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」(日が昇る国の天子から、日が沈む国の天子にあてて手紙を送ります。ご無事でおすごしですか)という手紙を皇帝の煬帝に送っています。 そこには、小国として、大国に学ぶべきことは学ぶ姿勢をとりながらも、独立国としては中国とは対等であるという気概が込められていました。

聖徳太子の「和の思想」とは
 法隆寺(奈良県)を建立したのも太子です。 仏教が日本に伝来してまだ間もないころ、仏教を受け入れるかどうかをめぐって、有力な豪族の曽我氏と物部氏との間で争いがありました。 太子は仏教の受け入れに積極的な曽我氏の血を引いていたので、仏教を深く理解していました。 そのため、寺院を建立し、積極的に仏教を広めていこうとしたのです。
 しかし、太子は仏教だけを広めようとしたのではありません。 のちの神道につながる日本古来の信仰も尊ばれました。 そうした太子の思想を表しているのが、「和をもって貴しとなす」の言葉なのです。 なぜなら、「和」を何よりも貴ぶというのは、縄文時代から自然と共に生きてきた日本人の神道的な考え方なのです。
 その後、日本では神道と仏教が共存しながら今日にいたっていますが、その源流ともなる基本形をつくられたのが聖徳太子だったのです。



冊子 日本がもっと好きになるより 16、17頁より引用
発行所 株式会社あなたと健康社
普及協力 一般財団法人 日本教育再生機構
posted by ひよこ at 20:41| 民話 東京 | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

梅若塚(うめわかづか)/木母寺(もくぼじ) (隅田川)

 甲武信岳(こぶしだけ)の深谷の水を集めて東流し東京湾に注ぐ隅田川は、全長およそ二二〇キロの大川である。その下流となる、鐘ヶ淵の屈折部の辺りには、梅若丸ゆかりの木母寺(もくぼじ)がある。
 およそ千年の昔、春、三月十五日の午後遅くのことだった。

「はよう舟に乗れ。ほどなく日も暮れるぞ」と、渡し場にもやう渡し舟の中から、船頭が呼んだ。岸辺で船を待て居た人々は、船頭の声にせき立てられ、あわてて舟へと乗り込んだ。
 その後、船縁にたどり着いた美しい女房が居たが、華やかな打掛も小袖も土ぼこりにまみれた姿だった。船頭はその女房に手を伸ばして舟へ助け乗せると、棹を突いて舟はゆっくりと岸を離れた。

 やがて舟は河心に浮かんだ。そのときはるか向こう岸から川面を渡って、鉦の音と大勢の念仏の声が聞えてきた。
 客の一人が、櫓をあやつる船頭にいわれを聞いた。すると船頭が「あれは無縁仏供養の大念仏でござるが、これにはなんとも哀れな話がござってな・・。」と言った。
「丁度、去年の三月の今日の事だった。あのあたりに身分ありげな稚児の行き倒れがござった。」
 その稚児は、都の吉田の少将惟房(しょうしょうこれふき)という公家の子だそうで、あるとき外出のおりに、信夫の藤太とやらいう人買いにかどわされて、あずまへ連れて来られたそうじゃ。馴れぬ長途の旅路の疲れのために病を発してしまい、隅田川のほとりまで来て倒れてしまった。無情にもその人買いが、稚児を河原へ捨て去ってしまってな・・・、と語った。

それまで、人々の背後に控え、話を聞いていた先程の女房が、「のう・・船頭どの、その御子の名はなんと・・。」と聞いてきた。
 「なんでも、梅若丸とかいう名だそうだ」と、船頭が答えた。
すると女房は「おお、その稚児は、わが子に相違ありませぬ!」と叫んだ。同舟の人々は、ハッと息を呑んだ。

 「さては、梅若はこの世を去りしか・・・・・。」
行方知れずになったわが子の面影を求めて、遠くあずままで、辛い旅寝を重ねたてきたが、もはやわが子は幽明境を異にしていたとは・・・・・と、気も狂わんばかりに女房は嘆き悲しんだ。
「あら痛ましや・・・。」と、同舟のみなみなは涙を流した。

 舟が岸に着くと、女房は梅若の塚へと駆け寄って、よよとばかりに泣き崩れてしまった。
すると、「われらは梅若どのの菩提を弔うため、かく忌日に集まり大念仏を行うもの。お嘆きはもっともながら、いまはひとすじに回向をめされよ」と、臨席の僧にさとされて、女房は泣く泣く念仏を唱えた。

 愛児の冥福を祈るために、女房は惜しげもなく黒髪を切り仏門に入った。名を、妙亀尼(みょうきに)と名乗って大川のかたわらに草庵を結び、余生を送ったという。妙亀尼の墓は『妙亀塚』といって浅草橋場にある。また梅若塚は木母寺の前にある。


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●木母寺ホームページ
●木母寺(もくぼじ)wikipedia
●妙亀塚(妙亀塚公園)
●妙亀塚(みょうきづか)
●梅若伝説と梅若塚
●梅若塚に雨が降る

参考書籍 日本の民話5
     ※参考図書を元に、引用、文章を書いています。
posted by ひよこ at 14:32| 民話 東京 | 更新情報をチェックする