2013年10月04日

狸和尚 建長寺 ( 神奈川県 鎌倉 )


昔話に狸や狐はよく出てくるじゃろう。
狸も狐もどちらも化ける名人で、人を化かすなどと言われているのは同じじゃが、ようく見るとその心根はどうやら違うようじゃ。

鎌倉に建長寺というお寺があるが、その寺の山門を「狸の山門」といっておる。
この山門にまつわる話から、狸の本当の心の優しさを伝えてほしいものじゃと思う。

昔、今から二百年ほどまえのことでした。
建長寺の山門は、古ぼけてしまって、柱も傾き、屋根も崩れ始めていました。
寺の和尚さんは、万拙和尚(ばんせつおしょう)と言う名でした。

万拙和尚はいつも山門の前に立っては、
「わしの生きている間に、この山門をなんとか再建したいものだ。 それには勧進の旅にでなければならんが・・・、わしのこの老いてしまった体では無理かのう・・・。」
と、老いたわが身を嘆いていました。
(※勧進(かんじん)= 社寺、仏像などの建立や修理のために寄付を募ること。)

そんな和尚さんの姿を、いつも裏山から見ている狸が居ました。
心配になった狸は、ある日のこと自分が旅に出て勧請をすることを思いつきました。
「おらぁ、もうこの寺の山に何百年も世話になっているが、何一つ礼ができてねえ。 そうだ!この際おらが和尚さんの代わりになって勧進の旅に出るとしよう!」
と、狸はあっという間に和尚さまの姿そっくりに化けてしまいました。

和尚さんの姿となった狸は、建長寺をあとにして諸国へ勧進の旅に出て行きました。
埃にまみれ、すり切れた衣をまとって、野や山をいくつも越えて苦しい旅を続けました。

「愚僧は、鎌倉の建長寺に使える層でおじゃる。 山門建立のための寄進のお願いに上がった。」
と、各地の名主や寺の門をたたいて歩いて回りました。
どの寺も、名主も、快く迎えてくれて寄進に応じてくれました。

「かたじけない。 これは、その例として受け取ってくだされ。」
と、和尚は、サラサラと書や絵をかいて、寄進してくれた人に贈っていった。
しかし、和尚のくれたその書は、筆の跡はみごとに見えるのだが、なんと言う字かは、だれにも読めなかった。

和尚の不思議はこれだけではなかった。
和尚が来る前には、『犬を放し飼いにしてはならぬ』『和尚が食事するときには同席してはならぬ』という先触れが、かならず出されることであった。

「建長寺の和尚さんといえば高層だからのう、食事の同席は禁止とはわかるが、犬とはどんなかんけいなんじゃろうか。」
と、各地で不思議がられていた。

ある日、和尚は、甲州街道を下って、ある名主の家をたずねた。
夕食どきになると、和尚はこう言った。
「わたしは、かわった性分でしてのう、他人さまがおられると食事ができんのじゃ。 わがまま言って申し訳ないが、席をはずしてくだされ。」
と、家の人に部屋から出てもらってから一人で食事をした。
食事のあと、名主が座敷へ行ってみると、そこらじゅうが飯粒だらけになっていた。

「なんと行儀の悪い和尚さまじゃ。 あれでも天下の建長寺さまかいな。」
と、首をかしげておった。

つぎに湯殿へ行ってみると、これまたたいへん。
天井や壁は、湯が飛び散って、まるで犬が入った後のようになっていた。

「うーむ、これはただの和尚ではねえぞ。 犬嫌い、飯の食べかた、湯の入り方・・・・。 よーし、わしが化けの皮をはいでやるぞ!」
と、その名主は、明けがたに、むく犬を二匹を放しておいた。

朝になった。
和尚は、名主の家族一同に、
「大変お世話になりました。 そのうえ、身にあまるご寄進をいただきかたじけない。 りっぱな山門ができますぞよ。 その建立の祝いには、名主ご夫婦ともどもおいでくだされ。 お待ちしておりますぞ。」
と、深々と礼を言って門を出ようとしたときだった。
放していた、むく犬たちが吠えに吠え、きばをむき出して襲ってきて、和尚ののどに噛みついた。
和尚は息絶えてしまった。
和尚の持っていた袋の中には、いままで和尚が苦労して集めた金三十五両、銭五貫200文がおさめられていた。

そして、七日目に和尚のなきがらは、年老いた狸になっていた。
名主夫婦は和尚が集めた金を持って、建長寺をたずねた。
話を聞いた万拙和尚は、むせび泣いた。

「おお、そうであったか。 あの狸がのう。 わしに代わって勧進の旅を続けてくれたのか。 そういわれれば、このごろ、久しく狸の姿をみんかった。 かわいそうなことをしてしもうた。」
万拙和尚は、狸のために境内に小さな祠を作って狸を供養してやった。
すると、夜になると、その祠の前にはひとりでに燈明がともったそうな。
それからこの山門を『狸の山門』というようになった。

狸和尚の話は、あちこちに残っている。
中には、相模湖の近くの正覚寺へは、本当の万拙和尚が来て、そのあとに狸和尚が来て泊まり、つぎに小原という宿場へ言ったという話も残っている。
狸和尚は、その小原で犬に噛まれて亡くなったが、そのなきがらは、ひとつの石となったという。
その石は、目もあり、鼻もあり、口もあり、まるで狸のような形をしていて、今も残っている。

こうして狸が出てくる民話は、義理堅い話もあるが、その末路は、悲劇になるものが多い。


こちらにも建長寺の動画があります


1.jpg
大本山 巨福山 建長寺
建長寺 Wikipedia
伝説!狸の三門~建長寺~

参考書籍 日本の民話5
     ※参考図書を元に、引用、文章を書いています。
posted by ひよこ at 16:07| 民話 神奈川 | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

五頭龍と弁天さま ( 神奈川県 )

千五百年もの遠い昔のお話。

武蔵と相模の国境に近い、鎌倉郡の深沢村、現在の鎌倉市に周囲四十里という湖があった。
その湖には、地元の人たちが五頭龍(ごずりゅう)と呼ぶ、五つの頭を持つ大きな竜がすんでいた。
湖のまわりは、モミやツガの原生林に覆われていて昼もなお暗く、飢えたオオカミたちがたむろしていた。
五頭竜は時折里を襲った。
そして子供を呑みこむと、草をなぎ倒しながら、満足そうに湖へ戻っていった。

片瀬村の隣に住んでいた津村長者には、十六人の子供がいたが、一人残らず五頭竜に飲み込まれたしまった。
そんなこともあり、村の者たちは、何よりも五頭竜を恐れていた。

竜が子供を飲んで湖に帰っていく道を、死んだ子供が山を越えると言われる事から「子死越(こしごえ)」と名付けられた。 これが今の「腰越(こしごえ)」となったと言われている。

今では村の衆たちは、子供を守る為に昼でも戸を固く閉ざすようになった。
そして村境には見張りを立てている。
そのため五頭竜は子供にありつく事は出来なくなっていた。

五頭竜はやがて年ごとに痩せていった。
そして、子供が食べたい五頭竜は、ついに怒り狂い、大きな山崩れを起こした。
さらには洪水をおこし、火の雨まで降らせた。

村では、夜毎に寄り合いが開かれ、長者は、打ち沈んだ一同を見渡して言った。
「これは、五頭竜の仕業である。 なんとしても五頭竜の心を静めねばならん。人身御供だ。 残酷な事だが、村のためにはこれしかもう手があるまい。 のう、みなの衆。」
村の衆は、村のためと言われると、返す言葉も見つからず、重い足取りで散っていった。

 近い日、村の誰かの家に人身御供指名の白羽の矢が立つという噂が広まったとき、大異変が起こった。
それは、欽明天皇(きんめいてんのう)の十八年四月十二日であったという。

 前夜から海岸一体にどす黒い雲、霧が立ち込めていた。 無気味な一夜が明けると、地の底がおどろおどろと響いたかと思うと、天地をゆるがす大地震がおきた。

 山は裂け、津波が村や山をひと呑みと、牙をむいて襲ってきた。 地震はなんと十日間も続き、四月二十三日の辰の刻に地鳴りはピタリと鳴りやんだ。

 村人たちがほっとした時、今度は海の底で大爆発が起こった。 真っ赤な火柱とともに、岩がつぎつぎと天まで吹きあげられたかと思うと、小さな島が出現した。
 これが今の、江の島だといわれている。

五頭竜は、このありさまを固唾を呑んで湖の中から見守っていた。

すると天から紫雲に乗って、美しい姫が左右に童女を従えて静々と下りてこられた。
どこからともなく、美しい音楽が流れてきて、なんともいえぬ良い香りも漂ってきた。
「なんとお美しい方じゃ!!」
五頭竜は美しい姫に一目で惚れてしまい、姫をわが妻にと、波をけって江の島へやってきた。

五頭竜は、美しい姫に話しかけた。
「もうし、姫どの、わしはこの辺りを支配しておる五頭竜と申す。わしの妻に迎えたくまいったのじゃ」

すると美しい姫は
「なんと申す五頭竜。おまえのように里人を苦しめ、罪なき幼子を人身御供として求め、田畑を荒らし、火の雨を降らせ、あらん限りの罪を犯したもののところへなど、弁天はいかれませぬ」
と、返事をした。

なんと美しい娘は、弁天さまだった。
弁天さまは、五頭竜を後ろに、洞窟の奥深くへ入っていかれた。

五頭竜はすごすごと帰っていったが、何を思ったのか、次の日また弁天さまのところへやってきた。
そして弁天さまにこう告げた。
「弁天さま。許してくだせえ。わしは深く反省いたしました。これからは、心をすっぱり入れ替えて、きっと村人のために尽くします。 どうか、信じてくだせえ。 五頭竜は生まれ変わりました。」

弁天さまは、五頭竜の真剣なまなざしをじっと見つめておられた。
そして五頭竜に静かに手をさしのべられた。
こうして五頭竜は、弁天さまと晴れて結ばれたのだという。

それからの五頭竜は、本当に生まれ変わったように村人たちのために尽くした。

日照りの年には、雨乞いもしないのに雨を降らせて枯死寸前の作物をうるおしてやった。
また、実りの秋には、台風を跳ね返して作物を守った。
地震で津波が襲ったときには、沖合いに泳いでいって高波に体当たりして津波をはねかえした。
五頭竜は、毎年、そのようなことを懸命にしていた。
しかし、年ごとに五頭竜の身体は衰えていった。

あの光った鱗も光沢を失ったある日のことだった。
「弁天さま、わしのいのちもそう長くありません。 これからは、この土地の山となって村をお守りいたします。 このように心を入れ替えてくださったあなたのご恩は忘れません。」
と言って、海を渡って対岸に着くと、五頭竜は一つの山になったという。
この山が、片瀬にある竜口山だといわれている。

村の衆は、五頭竜に感謝して、ここに社を建て、竜口明神(りゅうこうみょうじん)と名をつけた。
竜口明神の古びた本殿には、体長三十センチほどの、五頭竜の木彫りが御神体として納められている。

この明神社は、江の島神社で管理をしているが、今でも六十年に一度「巳年式年祭」を行い、その日には五頭竜の彫り物を江の島へ運び、弁天さまとお会わせしている。





1.gif 
龍口明神社(鎌倉一の古社、龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ))
江島神社
五頭竜 - Wikipedia

参考書籍 日本の民話5
     ※参考図書を元に、引用、文章を書いています。
posted by ひよこ at 19:38| 民話 神奈川 | 更新情報をチェックする